『マチネの終わりに』『ある男』『本心』『富士山』など、多くの話題作を手掛ける小説家の平野啓一郎さん。プライベートでは二人のお子さんの父でもあります。平野さんが子供の中学受験を通して感じたことや、ご自身の作品にも裏打ちされている生き方、考え方のヒントを伺いました。
(平野啓一郎さん×田内学さんの対談も!VERY7月号は6月6日発売です。詳細はこちら)
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VERY世代になぜ人気? 平野啓一郎さんの「分人論」
──ここ数年VERYの読者や、インタビューした著名人から「今、平野啓一郎さんの本を読んでいます」と聞くことが多いです。なかには、平野さんが提唱されている「分人主義」の考え方に救われたという人も。改めて、分人主義とはなんでしょうか?
分人とは、家庭や職場、学校などの対人関係や環境ごとに異なる人格のことです。それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えることを「分人主義」として、書籍やウェブサイトで紹介してきました。
「自分はこんな人間だ」と一面的に見るのではなく、接する人や環境によりいろんな側面があることを受け入れられれば、「自分なんて」と全否定してしまう苦しさから解放されるのではないか。それは困難な時代を生きていくうえで重要なことだと思います。この考え方を解説した新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』は、2012年の刊行ながら、毎年増刷されているので、たしかに今も読まれている実感はあります。教科書で読んだという若い人もいて、読者の声を聞けることはとてもうれしいです。
「本当の自分」は一人じゃない。いくつもの顔をもつからこそ救われる
──その本の中で、「いくつも足場があることも大事だ」と書かれていました。私(ライター)自身も、母である自分、仕事をしている自分など、関わる人や場所ごとに自分が違っていてもいい、いろんな足場を頼りにしてもいいと考えると、とても気持ちがラクになりました。平野さんが分人について考えるようになったきっかけは、どんなことだったのでしょうか。
『ドーン』という小説を書いたことが一つのきっかけになりました。近未来小説で、有人火星探査に参加した日本人の宇宙飛行士が主人公として登場しますが、執筆にあたって調べてみると、火星と地球の軌道の関係でどんなに短く見積もっても3年はかかるんですね。技術的な課題はともかく、閉鎖空間では人間の精神が 3年間ももたないのではないかというのがNASAやJAXAの共通した懸念なのですが、「そもそもなぜもたないのか」ということが気になりました。クルーとして選ばれるのは、優秀なだけでなく協調性のある人たちでしょう。選ばれるメンバー同士の相性も考慮されると思います。でも、自分がもしそのメンバーになったらと想像すると、直感的に難しいと感じました。これが船旅であれば、時々船の甲板に出て太陽を浴びたり、別のクルーと誰かの悪口を言ったりして息抜きできる可能性もあります。でも狭い宇宙船ではそんなことはできません。一つの空間、一つの人間関係の中で、一人の自分しか生きられないことは苦しいことです。そこから人間はいろんな場所で、さまざまな自分になれることで心身のバランスをとって、精神を健全に保っているのではないかと考えるようになりました。
そう考えると、たとえば、専業主婦で小さな子どもと過ごす時間がほとんどの場合、その状態にとても満足できる人もいれば、息がつまるという人もいるだろうと想像できます。妻(モデルの春香さん)と話していて、育児をしている自分、仕事している自分、友達と過ごすときの自分などが複数存在することが彼女にとっての充実感につながっているように思います。多くの人は、職場での自分、パートナーや子どもと過ごすときの自分などいくつかの分人があって、心のバランスをとっています。
──平野さんご自身はいかがでしょうか。子育てをしている自分や夫としての自分が存在しつつも、小説家という職業上、一人で机に向かって執筆する時間がどうしても長くなると思うのですが。
でも、書く作品ごとにいろんな自分になっている感覚があります。自分の考えを投影させるだけでは小説は完成しません。登場人物には自分とまったく違う考え方の人間も必要です。どういうわけか嫌な奴を書いているときに限って、筆が乗るんですよ(笑)。そんな瞬間はけっこう楽しいんですね。主人公がいくら正しいこと言っていても、「いやいや」という反論してくるような人物がいないと、物語は進んでいきません。
中学受験を通して、娘の成長が実感できた
──最新短篇集『富士山』は、さまざまな年齢や性別の主人公が登場します。読む人の状況や心境によって、共感するポイントが異なるようで、読後の感想を誰かと話したくなる一冊でした。
編集部で反響が大きかったのが、本誌でも紹介した「ストレス・リレー」と「手先が器用」、そして、「息吹」です。「息吹」の主人公は、中学受験を控えた息子を持つ40代の男性。主人公の身に起こる奇妙な出来事についてはここではあえて触れませんが、子どもの中学受験をサポートする主人公の描写がものすごくリアルで……。これはもしかして、平野さんの実体験も含んでいるのでしょうか。
今、中学2年生になる長女の中学受験での経験が小説には反映されています。我が子の中学受験を通して、教育とはなんだろうと、教育産業の過熱ぶりについて考えることも多くなりました。
さきほど、僕の作品が教科書に載っているという話をしましたが、入試問題として取り上げられる機会も多いです。受験では、各校が独自の入試問題をつくっていて、出題傾向が異なることから、志望校別の対策講座を受講する必要があります。大体、複数校受験するので、その分、対策にも時間とお金、労力がかかります。もちろん、本命校中心になるとは思いますが。昔から大学受験などではそうですが、今はある意味、きめ細やかで、だからこそ同時にビジネス化しているとも感じます。全校共通の問題にしてしまえば、そもそもさまざまな対策講座も必要ないし、いろんな学校を受験しやすくなって結果的に子どもの可能性が広がるのではないか、……と考えることもあります。ただ、学校側はやはり自分たちが欲しい生徒に対応した問題を作る自由は維持したいでしょうね。ジレンマだと思います。
──中受を経験した親であり、小説家でもある平野さんならではの考察が興味深いです。
中学受験は、けっこう標準的な家庭並みに一生懸命取り組みました。一番大変なのは子どもですが、親がすべきことも多い。6年生にもなると、夏休み中に1日10時間も勉強することになり、「小学生の子どもがこんなに詰め込み型の学習をするのはどうなのだろう」という疑問はやっぱりあります。ただ、国語の勉強に一生懸命取り組むと、娘の語彙力も格段に上がりましたし、社会や理科で学んだ基礎的な教養のお陰で、親との会話が豊富になったことは事実です。世の中のことや科学のことなどについて、一々説明しながら話す必要が減りました。だから、中学受験自体を全否定はできないとも感じています。子どもの希望や適性を無視して親が無理やりレールに乗せようとするのはよくないし、精神的に耐えられるかどうかも見極める必要がありますが、受験を通じて、その後の人生でどういった勉強の方法が自分に向いているのか、どういう分野に興味があるのかが前倒しで多少見えてくるなら、意義のあることでしょうね。
『富士山』(平野啓一郎・新潮社)
些細なことで、私たちの運命は変わってしまう。あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、なぜ、今のこの人生なのか?その疑問を抱えて生きていく私たちに、微かな光を与える傑作短篇集。
編集部でも話題! 編集スタッフイチ押しポイントは?
「もし、あの駅で降りなかったら。あの店に入らなかったら。一見、平凡に見える人生にも、実はいくつもの分岐点があります。主人公たちの選択を追体験しながら、今ある日常の尊さを改めて実感する一冊です。特にVERY読者なら、母娘をテーマにした『手先が器用』は涙なしには読めないはず!」(本企画担当ライター・樋口)
「書店で何気なく手に取り、あまりの面白さにそのままレジに直行してしまいました。とくに好きなのは表題作『富士山』とラストの『ストレス・リレー』。関西帰省のため東海道新幹線に乗るとき、いつも思い出す物語です。友人はオーディブル版もよかったと話していました」(担当編集・髙田)
PROFILE
平野啓一郎さん(ひらの・けいいちろう)
1975年、愛知県生まれ、北九州市出身。小説家。京都大学法学部在学中の1998年、「日蝕」によりデビュー。同作は翌年、第120回芥川賞を受賞した。『葬送』、『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『ドーン』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞)、『ある男』(読売文学賞)、『本心』、『三島由紀夫論』(小林秀雄賞)など著書多数。二児の父でもある。
取材・文/樋口可奈子 撮影/須藤敬一 ヘア・メーク/只友謙也〈Linx〉