【犬山紙子 緊急連載 】
コロナ禍中日記 3歳児とともに Vol.4
5月5日 娘とぬいぐるみ
ミニーちゃんのぬいぐるみで遊んでいる。「ミニーちゃんケガしちゃった。ここが痛いって。ミッキーの絆創膏を貼らなきゃ」と言いながら娘なりのミニーストーリーが続いてゆく。続いてゆくと思いきや他に気をとられるとポイっと雑に投げて放置している。
1歳になる頃からぬいぐるみが好きだった。外に出かける時はしまじろうのぬいぐるみを必ず持って出る。これは心理学で言う所の「移行対象」であり、母親と離れ自分で動くことによって生まれる不安、その不安解消材としての役目を持つのだそう。別段おかしいことではないので「よろしく頼むぜ、しまじろう」とどぎつい配色のぬいぐるみに信頼をよせていた。どんなにおしゃれをしてもしまじろうの黄と黒で調和が崩れることに少し困惑したけど、あの黄と黒は魔除けのような効果もあったんじゃないかとも思う。
3歳になり、コミュニケーションが取れるようになってきた娘とぬいぐるみの関係性は「移行対象」というものだけじゃなくなってきたように思う。「擬似親以外の虚構も乗せることができる媒体」と書くとなんとも味気ないけれど、子どもなりの願望だったり処理したい感情を乗せて、その気持ちが乗っている間は本当にぬいぐるみが生きている自分や友達のように感じているんだと思う。ドレスを着せたり、お化粧させたり、お医者さんになったり、空を飛んだり、悪と戦ったりしている。自分の体じゃないものに気持ちを乗せると、自分の体だと出てこない考えやストーリーも生まれ出て夢中になるんだろう。ぬいぐるみ遊びは「自分の魂がもし別の容れ物に入っていたら」遊びとも言えるのかもしれない。だからどんなぬいぐるみでも良いというわけでもない、容れ物としてしっくりくるものでないと難しい。
そして気持ちをのせなくなった瞬間、ミニーはただの布と綿になる。
じゃあ大人になるとそういう気持ちが消えるのかというとそうでもない。大人になっても自己の依り代を見つけては、自分との対話を図るけれど、それは「子どもっぽい」と思われてしまうから周りに見せない。だから大人は「自己の魂がもし別の容れ物に入っていたら」遊びをしていないように見えている、そう見えているだけなんだけど。推しだったり、模型だったり、本だったり、自然だったり、ボールだったり、絵の具だったり、みんな対話しているのだ。
ぜんっぜんこっちの話は聞かずに自分の話ばっかりする人は、依り代にしやすい他者を選んで自己と対話しているんだろうとも思う。そういった人の話は勝手にどんどん解釈が進んでいって「え? そんなふうに飛躍する?」と聞いてる方もだんだんおもしろくなってきたりもするし「結局また過去の栄光に帰結したな」と悲しくなったりもする。
大人になってもぬいぐるみを愛する人は自分の魂からさらにぬいぐるみの魂まで生み出している、魂が魂を出産しているように思う。私は子供や動物を愛する人と同じくぬいぐるみを愛する大人が好きで、顔がほころんでしまう。それは魂の出産の尊さに勝手に顔が反応してしまっているのかな、と思う。
ここまで書いてこれは日記なのか? と疑問を持ったけど日記は自由ということで。なんにせよ娘に抱きしめられて振り回されてくたっとした手触りのぬいぐるみは私にとっても愛おしい存在になったんである。
ぬいぐるみ、というと
村田沙耶香さんの初の絵本「ぼくのポーポがこいをした」がとても良い絵本で、この絵本に子ども時代触れられるのは羨ましいなあと子どもに対して思うくらい。ぜひ。
———ご主人と3歳の娘さんとの「おこもり」な日常、子育てや仕事の悩み、みんなにシェアしたいこと……を犬山さんが「ほぼ(隔)日」でアップ!
担当編集も途中まで「これははたして日記なのか?」と不安になりました。
◉犬山紙子
エッセイスト。1981年、大阪府生まれ。14年、ベーシストの劔樹人氏と結婚。17年、女児誕生。著書多数。『スッキリ』等、テレビのコメンテーターとしても活躍中。最新刊は『すべての夫婦には問題があり、すべての問題には解決策がある』(扶桑社新書)
写真・イラスト・文/犬山紙子 編集/フォレスト・ガンプJr.