2人の子どもの出産後、40歳のとき乳がん検診でがんが見つかった岡野優子さん。夫の転勤・海外赴任の帯同を経て、本格的に仕事復帰をしたばかりの岡野さんにとってがんは予想外の出来事でした。ステージ1の乳がんと診断され、右胸の摘出手術を受けるまでのこと。幼稚園児、小学生の子どもたちの反応や、術後の現在の思いを伺いました。
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まさかの乳がん宣告! 右胸の全摘出手術が決まるまで
──まずは検診で乳がんが見つかったときのことを教えてください。
2024年10月に受けた、自治体の乳がん検診(マンモグラフィー)がきっかけでした。自覚症状があったわけではありませんが、30歳で第1子、35歳で第2子を出産後に「授乳も終わったことだし、今年は受けてみようかな」くらいの気持ちでの検診だったんです。
──何事もなく済むと思っていたなか、検診中に左右の胸の形の違いを指摘されたそうですね。
ただ、あくまでも検診中の話なので、正確な診断結果が届くのは3週間後だと言われました。居ても立ってもいられなくなり、その日のうちに別の乳腺外科クリニックを予約。このクリニックで、比較的高い可能性で乳がんの疑いがあることが告げられました。
現在は生まれ育った街・京都で暮らす岡野さん。幼稚園児の娘と鴨川で。
──その後、さらなる検査を行い、最終的にはステージ1の乳がんであることが判明。岡野さんのがんのタイプから、右胸の全摘出手術を行うことが決まったそうですが、告知を受けたときはどんな心境でしたか。
初期の発見だったとはいえ、「がん」という言葉を耳にしたときのショックは大きかったです。私の会社員時代の先輩のうち4人が病気のため40代の若さで亡くなっているのですが、その方たちの顔が浮かびました。「自分は長生きするにちがいない」と漠然と思っていたけれど、そうではないのかもしれない。言語化できない恐怖心や不安に包まれたことを覚えています。
胸を失うことに対する抵抗感が、自分のなかで想像以上に大きかったことも意外でした。「命が助かるなら、別にいいじゃない」「今さら女性らしさなんて」とすぐに切り替えられると思いきや、その領域に達するまでに受け止めなければならない感情の多さに、困惑している自分がいたんです。
我が子への告知と、恐怖心への立ち向かい方
──ただ、恐怖心がありつつも、乳がんが発覚してからの岡野さんは、本を読んだり美術館に足を運んだりと積極的に動いていたそう。病に前向きに立ち向かっていたようにも感じます。
「もしかしたら死ぬんじゃないか」との恐怖心から、心まで壊れることが怖かったんです。それに、がんになったからといって日々の生活は止まりません。母として、子どもたちの生活も守らなくてはいけません。そこで、恐怖心のもとにある正体を知ることで、死への過剰な恐怖心を和らげようと考えました。参考になりそうな音声メディアを聞いたり本を読んだり、美術展に足を運んだりもしました。
──当時、どんな作品を手に取っていたのですか?
ポッドキャストでは『歴史を面白く学ぶコテンラジオ~老いと死の歴史編~』という番組をよく聴いていました。本はたくさん読んだのですが、医師でもある久坂部 羊さんの『寿命が尽きる2年前』や経営学者・楠木 建さんの『絶対悲観主義』は、今も考え方の参考にしています。
手術前に足を運んだ塩田千春さんの『つながる私(アイ)』という美術展も印象に残っています。作品を通して、「もしも自分が亡くなったとしても、我が子たちの心のなかで生き続けられるような母親でありたい」と強く感じたことを覚えています。
──ご自身ががんに罹患したことを、お子さんたちには打ち明けましたか?
乳がんだとわかってすぐの頃に伝えました。ただ、子どもたちの反応は予想に反してライトなもので……。でも、よく考えたら当たり前ですよね。がんという病のことを深く知らない彼らにとっては、母が風邪をひいたのと同じような感覚だったのかもしれません。
「手術でおっぱいをとることになってね」とも打ち明けると、さすがに少し驚いてはいましたが、大人ほど深刻には捉えていないようでした。ただ小学生の長男は、当時はあまり変わらないように見えていましたが、最近になって「ママが入院中、寂しくって布団のなかで泣いてたんだよ」と打ち明けてくれて……。
入院前に、娘が作った折り紙。手術前後は子どもたちの言動に助けられることも多かったです。
──すべてを理解できないけれど、お子さんたちなりに、お母さんに心配をかけまいとがんばっていたのかもしれませんね。
闘病生活中には思いもよらない子どもの成長を感じる場面もありました。私が手術前に胸の痛みに苦しんでいたとき、幼稚園児の長女が「大丈夫だよ」と言って手を握ってくれたことも。普段はまだまだ手のかかる娘だと思っていたので、驚きましたがうれしかったです。夫も、私の入院と仕事が多忙な時期が重なっていたにもかかわらず、仕事を休んで一切の家事と育児を引き受けてくれました。病気を通して、家族の有難さを改めて実感しています。
術後の右胸は直視できないけれど…
──今年1月に行われた右胸の摘出手術を経て、現在は再発予防のための投薬治療を続けています。
私のがんは女性ホルモンの影響を受けやすいタイプのものだったので、術後は女性ホルモンを減らす治療を受けています。それが今後5年間続く予定です。更年期のような症状が現れるので、火照ったり気持ちが不安定になったりすることもありますが、東洋医学の鍼治療なども組み合わせて和らげるようにしています。
術後は体調、気持ちが不安定になることも。日々工夫しながら自分の体と向き合っています。
──思いがけない病気と向き合い、人生観にも変化があったようです。
摘出をして乳房のなくなった右胸を直視することは、今もまだできていません。「別に胸のひとつくらいなくても……」という境地には至っていないというのが本音です。でも、「胸がなくても自分のあり方が変わるわけではないし、生きられるならいいか」と徐々に受け入れている最中です。
最近は少しずつ、体を動かす機会を増やすように。友人との早朝登山後に見た朝焼けです。
残された時間も意識するようになりました。それまでは、自分が主宰している仕事や人生を考えるキャリアワークのなかで何度も、「今は人生100年の時代です」と口にしてきたのですが、残された時間なんて誰にもわかりません。これから先、がんが再発するかもしれないし、事故や災害に巻き込まれることもあるかもしれない。だからこそ今、目の前にある一瞬一瞬を大事にしたいと願うようになりました。大切な家族とうれしいことや楽しいことを共有しながら、生きていきたい。ありきたりな言葉かもしれませんが、日々そんなことを思うようになったんです。
※掲載中の写真はすべて本人提供
PROFILE
岡野 優子(おかのゆうこ)さん
1984年生まれ、京都市出身。早稲田大学政治経済学部を卒業後、鉄道会社に総合職として入社。結婚・妊娠を機に30歳で家業を継ぐため転職するも、直後に夫の転勤が決まり休職。専業主婦として大阪、東京、広島、京都を経てロンドンに駐在。2023年に家族で帰国後は、実家のある京都に戻り家業に復職。本業の傍ら、高校の非常勤講師や子育て世代のキャリア支援を目的とした団体「De ma vie」を主宰。シリアの教育支援に関わるNPO「Piece of Syria」のアンバサダーとしても活動中。2024年にはステージ1の乳がんが発覚し、摘出手術を受ける。これまでの活動や日々の思いを綴るnoteはこちら。
取材・文/小嶋美樹