■ 義父のコトバ
「ウソみたいに、娘みたい」
「負けてもいいよ」の一言で
初優勝を勝ち取る
私の柔道人生の転機となったのが’18年のトルコ大会。決勝直前、周りの皆が「勝て」と無言の圧力をかけてくるなか、悠さんだけが「負けてもいいよ」と言って会場から立ち去っていきました。「そっか、負けてもいいんだ、私……」と臨んだ試合で初めて優勝できたのです。
彼が私に示してくれたのは、真の柔道の姿だったのかもしれません。運動神経も悪く、センスがないと言われ続けた私。彼の「自分を信じ、俺を信じ、感謝の気持ちは忘れず、周囲に惑わされるな。それが『楽しい柔道』なんだ」という教えが実を結んだのだと、今も忘れることができないコトバです。
私たちアスリートを支えてくださる皆さんの応援は時にプレッシャーとなり、それを乗り越えた人だけが勝てるのが競技の世界とも言われます。舞台が大きければ期待も倍増するのは当然ですが、以前の私はそのプレッシャーに真っ向から対峙し、負けそうになっていました。
彼と出会ってなかったら、私はとっくに柔道を辞めていました。病気にさえならなかったら、と思ったこともありますが、病気にならなかったら今の私はなかったし、唯一無二の大切な家族とも出会えてなかったんですよね。
■ 義母のコトバ
「東京2020二人で頑張ってね」
次世代に伝えたいのは
「楽しい柔道」
柔道の世界には「ストイックな鍛錬を積んだ者が勝利を得る」といった、暗黙の掟がありました。でも、彼の信念は「しんどいことこそ楽しくやる!」彼は高校時代、緑内障により片眼の視力を失い、もう片方は視界の中心がわずかに見えるだけに。その時、視覚障害を負った苦しみより、「やっと柔道を辞められる」という嬉しさのほうが先だった、というくらい厳しい柔道生活を送っていました。
後に彼が海外の選手たちとの交流で見聞きしたのはモチベーションをどう高めていくかというコーチング法。自分を追い込むのでなく、リラックスし、好きなものを食べて疲れたら休む、楽しむことが大切、というものでした。
最初は私も周囲も戸惑いました。道場で歯を見せただけで「不謹慎!」と言われていたのに、悠さんの指導は家にいる ときと同じ、私を笑わせるところから始まるんですから! 同時に私の弱点を見抜き対戦相手の研究もするなど、私に合った練習方法を編み出してくれました。私も、彼を信じてついていきました。
競技人口が減少している柔道ですが、誇るべき日本の国技。心と体を修練した先にある「強さ」と「優しさ」が得られるスポーツです。自分より大きな相手を投げたり、投げられないように技を磨くことは楽しい! 次世代にも「楽しい柔道」を伝えていきたいと思っています。
「人生を楽しむ」のがテーマ
まだまだ夢があります
限られた視力の中で生きている私たちだから見える世界があります。命があること、柔道ができること、大切な人たちとたくさん笑って美味しいものが食べられること。これらを失う日がいつ来てもおかしくないことも知りました。
東京2020、もし無事に開催が叶ったときには、私たちらしく楽しみたいと思います。悠さん曰く、〝スポーツ〞の語源には〝楽しむ〞という意味があるそうです。私の夢は、これを機にたくさんの人がスポーツに親しみ、観戦や応援を楽しんでもらうこと。そして障害やマイノリティーへの「心のバリアフリー」がもっと進んだらいいな、と願っています。
次の夢は子どもを産んで育てること。そしてやはり、ずっと彼と一緒に笑って柔道を、人生を楽しんでいきたいと思っています。
廣瀬さんのHistory
1. 家族でロンドンに旅行した時の写真です。
2. 柔道少女を描いた漫画、『あわせて1本!』の主人公に憧れて始めたのが柔道です。女の子が男の子を技で投げ飛ばすのがかっこいいんです。
3. 高校1年の時、78キロ級でインターハイに出場。このころは今と違い笑うこともなく、教室の隅にいるような子でした。
4. リオパラリンピックの前、’16年12月にグアムで結婚しました。
5. 花園大学での4年間は、友達と学校の支援もあって一番楽しい学校生活でした。その時の仲間たちが、リオパラリンピック出場の際、アルバムを手作りしてくれました。
6. うさぎのバット君。フワモコの姿に癒されます。
撮影/吉澤健太 ヘア・メーク/松金やよい〈ティアラ〉 取材・文/三尋木志保 編集/磯野文子 撮影協力/松山東雲女子大学
※掲載中の情報は2020年VERY5月号「連載・家族のコトバ」誌面掲載時点のものです。
■廣瀬順子選手の出場種目スケジュール■
「柔道 女子57kg級」
2021年8月28日(土) 10:30 – 13:30
2021年8月28日(土) 16:00 – 18:40