VERYで掲載中の人気連載企画「家族のコトバ」。昨年パラリンピック延期決定前に取材を行い、2020年VERY5月号にて掲載していた廣瀬悠・順子さん夫妻のインタビュー内容を、パラリンピック開催を前にWEBにて再掲載します。
※以下掲載中の情報は2020年VERY5月号「連載・家族のコトバ」誌面掲載時点のものです。
東京パラリンピックをともに目指す視覚障害者柔道の廣瀬悠・順子さん夫妻。今日も二人のいる道場には、明るい光が降り注いでいます。順子さんを笑顔に導いたのは、夫の一言でした。
■ Profile
廣瀬順子(ひろせじゅんこ)さん
1990年山口県山口市出身。大学1年の時、成人スティル病を発症し視覚障害となる。視覚障害者柔道を始め、夫の悠さんがコーチに。’16年リオパラリンピックに夫婦で出場、順子さんは銅メダルを獲得。
東京2020も夫婦でパラリンピックを目指し、 ともに練習に励んでいる。
■ 夫のコトバ
「負けてもいいよ」
夫婦で臨んだリオ大会に続き、2度目のパラリンピックとなる東京大会。道のりは長かった!というのが私と夫である悠さんの本音です。私たちはともに視覚障害者柔道の選手ですが、銅メダルを勝ちとったリオの頃から「東京2020」を念頭に、二人で歩んできました。
視覚障害を負った苦しみより
命の大切さに気づく
小学校5年生、少女漫画の主人公に憧れて地元・山口で柔道を始めて以来、柔道漬けの生活でしたが、大学入学を機に柔道は趣味として続けることに。しかし、間もなく膠原病の一つである成人スティル病を発症、合併症で視覚障害になりました。現在は中心が見えず、左右の視界がぼんやりと見えています。
突然襲った病でしたが、視力に障害を負った苦しみより、生かされていることの大切さに気づいたことのほうが大きかった。四人きょうだいの中でいちばん成績の悪かった私に両親は手を焼いているはず、と思っていたのですが、病院に泊まり込んでくれた両親や祖母の愛情に触れたのは、闘病中のことでした。
それまで人見知りで、クラスでも隅にいるような子でしたが、誰かと話すことが楽しい、と思うようになったのは、一人では生きていけないと気づいたせいかもしれません。
通っていた大学を辞め、視覚障害があっても通える大学を受験し社会福祉士の資格を目指したのも、生死をさまよう経験をして、じっとしているのはもったいないと思ったから。退院後、新たに通った京都の花園大学では知的障害者の支援サークルに入りました。入院生活より、高校の柔道部のほうがきつかった、と思うほど厳しかった柔道から離れ、仲間たちと賑やかに過ごした4年間は、今まででいちばん楽しい学校生活でした。黒板の文字が見えずに最前列で授業を受ける私に付き合ってくれた友人たちの優しさに触れたことも、大切な思い出です。
目指すは「東京2020」!
夫婦で2度目のパラリンピック
一度は離れた柔道ですが、大学3年の時、再び何かに打ち込みたいと視覚障害者柔道を始め、就職を機にパラリンピックを意識するように。夫の悠さんと出会ったのはアメリカ遠征合宿。私は学生で、彼は既婚者でした。翌年同じアメリカ遠征で一緒になり、独身になった悠さんと交際がスタート。
11歳年上の彼はどこにいてもムードメーカーで面白くて優しい人。実は彼、モテるんです(笑)。「男は顔じゃない。トーク力だと、俺が証明してる!」と。こんな言い方が適切なのか分かりませんが、視覚障害者にしか分からない彼のブラックジョークで、「私は一人じゃない」と、 心が開かれていくようでした。ユーモアの底にある大きな心に触れていると、私は肩の力が抜けてよく笑ってしゃべる、明るい性格になっていました。
仕事の関係で私が東京、彼が愛媛という遠距離恋愛に耐えられず、悠さんから別れを切り出されたのですが、悲しくて泣いてばかり。距離が問題なら仕事を辞めて私が愛媛に行く!と、宣言して結婚することに。でも、障害者同士、歳の差、彼のバツイチ、なによりリオパラリンピックの直前ということもあり、正直なところ周囲は賛成してくれませんでした。「人生を決めるのは自分。柔道はいつでもできるけど、この人との結婚は今しかできない!」と、’15年12月に入籍。悠さんは私のコーチでもあり、家庭でも柔道でも一緒の生活がスタートしました。自宅の近くに住む義父母には毎日助けてもらっています。「本当の娘みたい」と、言ってくれるお義父さんは私が困っていないかと気づかってくれます。お義母さんはいつも美味しい料理を持ってきてくれ、私たちだけでは難しい家事を手伝ってくれる頼もしい人。悠さんが柔道を再び始めたのも、両親に恩返ししたいと思ったからだそうです。
’16年、念願のリオパラリンピックに二人で出場。世界ランキング7位だった私が銅メダルを取れたのは、悠さんが家族として、コーチとして常に私と一緒にいてくれたからです。