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不妊治療から子宮全摘「女性は結婚し子どもを産むのが幸せ」でない価値観を

自身の不妊、流産・死産、子宮全摘の経験から、同じ悩みを抱える人のためのカウンセリングルームを主宰する池田麻里奈さん。彼女の人生の折節の苦悩や価値観の変化について聞きました。

(この記事は、VERY2018年10月号に掲載された内容です)

 

 

20代で結婚、すぐに妊娠を望んでいたけれど……


北海道で育った私は22歳の時上京し、新しい職場で出会ったのが夫です。付き合いだしてまもなく、北海道にいる父が末期の大腸がんだという連絡が入りました。両親は私が6年生の時に離婚し、私は父に、弟は母に引き取られました。父子家庭で育った私は、父との絆が人一倍強かったため、余命3カ月と告げられた時は目の前が真っ白に。動揺して泣く私に、彼がプロポーズしてくれて、28歳の時、念願の花嫁姿を父に見せることができました。生きる糧になるから早く孫を抱かせてあげたいと、皆が願っていましたが、2年経っても妊娠せず、産婦人科を受診したところ、私も夫も異常なしという結果に。「理由もないのに妊娠できないなんてことが、私の体で起こるなんて……」と、急に暗闇に立たされたような気持ちを抱えながら、不妊専門クリニックを訪れました。

 

医師から、「ここまで頑張ってきたなら」と、人工授精を提案され、2回目で妊娠した時は、驚きと嬉しさでいっぱいでしたが、6週で自然流産に。落胆も大きかったのですが、妊娠できたこと自体は前向きに捉えることができました。余命宣告より5年も長く生きた父は、「赤ちゃんは残念だったけど、体を大切にね」と私を気遣い、他界しました。父に孫を見せてあげられなかったことは今でも心残りです。

 

6回の人工授精を経て、すがりつくように体外受精をしたのは34歳の頃でした。失う命ばかりで新しい命を求めていたのかもしれません。「早く子どもを産んで、友人たちのようにママになりたい」という一心で、当時勤めていた出版社を辞めてすぐに体外受精で妊娠しましたが、8週目で流産。「不育症」の検査を受けると、胎盤の血液が固まりやすいという結果でした。夫は独立したばかりの仕事が順調で、充実している様子に疎ましささえ感じ、気持ちも離れてしまいそうでした。不妊治療は二人の問題なのに、いつも孤独でした。皆の期待に応えられず、周りからはおいていかれるような、焦りを覚えていきました。

 

心理学を学んだきっかけそして3度目の妊娠と死産


そこまで自分を追い詰めた気持ちを整理したくて、私は心理学を学ぶことにしました。不妊の当事者が学ぶ不妊カウンセリング講座で、初めて同じ悩みを持つ仲間と出会い、自分を語れるようになりました。薄皮を剝ぐように、と言いますが、薄皮を少しずつ重ねるようにして、すり減った心を取り戻していきました。

 

その過程で、私が望んでいたものの根っこが見えたのは大きな進歩でした。シングルファザーとして深い愛情で育ててくれた父でしたが、母がいないために不便なことはたくさんありました。お弁当を持たせてくれたり、一緒に料理を作ったり、どんな時も見守ってくれる他の家庭の〝お母さん〞を羨ましく思うことも。それがいつしか、「自分が母親になったらこんな風に育てたい」という、理想の母親像のようなものになり、さらには「その理想の母親になりたい」という執着へ変わったのだと思います。

 

周囲から何気なく言われる「お子さんはまだ?」の言葉に傷ついていた私ですが、「結婚したら子どもを産んで当たり前」というのも、実は私自身が思い込んできた価値観。「それができない自分を受け入れられない。だから私はこんなに苦しいんだ」と、自分の気持ちや状況に納得してからは、目の前が少しずつ開けていきました。「不妊」という大きなものに惑わされていたけれど、本来の欲求は子どもと触れ合って、成長を見守ることだと気づいたら、親にならなくても今できる、私の役割が見えてきたのです。

 

その頃から、児童養護施設で育った若者たちとご飯を作って皆で食べる活動や、乳児院での赤ちゃんの抱っこボランティアに参加しました。初めは子どもがいない私でよいのかと戸惑いましたが、思い切って知らない世界に飛び込んでみたら、活動メンバーに受け入れられ、心が癒されていきました。

 

2011年不妊ピアカウンセラーを、その後も勉強を続けて家族相談士(2014年)、不妊カウンセラー(2015年)の資格を取得しました。そのさ中、2011年の4月、人工授精で3度目の妊娠をしました。胎盤を安定させるための注射を日に2回、自分でお腹に打つのですが、赤ちゃんのためなら平気でした。また、つわりがひどく寝込んでいた私に、それまでず
っと多忙を極めてきた夫が早く帰宅して、慣れない手つきで毎晩の夕食と翌朝の朝食を作ってくれるようになったのです。結婚して初めて、「この人と結婚してよかった!」と思えました。

 

お腹の赤ちゃんは順調に成長し、安定期を過ぎてお腹が大きくなってから、少しずつ友人たちにも知らせていました。ところが、7カ月健診の前、お腹がやけに静かなのが気になり受診すると、異常なしとの診断。でも翌週の健診で、「赤ちゃんが動いていません」と告げられました。一瞬、医師の言葉の意味がわかりませんでした。

 

それから数日は、時間が突然切断されたようでした。陣痛を起こして、亡くなった我が子を産まなくてはならない悲しさ、切なさ、再び襲う自責の念……。産後、娘の胎盤や臍の緒を調べたのですが、異常は見つかりませんでした。やはり、私に赤ちゃんを育てる力がなかったのだと自分を責めました。生まれた子はとても可愛い、きれいな女の子でした。
夫があんなに泣く姿は初めて見ました。それまでは不妊治療がうまくいかない時、流産の時など、ことあるごとに私を慰めようとしてくれていた夫ですが、あの日は言葉もなくし、自分事として二人で一緒に涙を流し続けていました。私にはそれが、初めて夫婦が同じ温度で悲しみに向き合い、寄り添っているように感じられ、何よりの慰めでした。

 

周囲の方々からも「ゆっくり休んでね」と、たくさんお気遣いをいただきました。心からありがたいと思う一方で、私を心配し、赤ちゃんについてはほとんど触れられないことが、じつは寂しく感じることもありました。亡くなった子の話をするのは躊躇することだと理解しているのですが、本当に気持ちは複雑なものですね。今も思い出すのは、そんな状況の中、カウンセ
リング講座の同期が家に来て黙って仏壇に手を合わせてくれたこと。娘の存在を認めてもらったようで、胸がいっぱいになりました。

 

「自分を赦す」旅が始まる 子宮全摘も決意


講座の恩師でもある相談室のスーパーバイザーの小倉先生が、「自分を赦せるのは自分しかいない」と言った時、私の中で固く閉じていたドアが開いたような気がしました。先生が言ってくださった「赦す」というのは「受け入れる」という意味ですが、そう、私が私自身を赦さなければ、この苦しみは一生続くんだ……。これまで授かった小さな3人の命も、辛い出来事も忘れる必要はなく、すべてひっくるめてずっと抱えていけばいい。そして「自分が納得できる時が来たら、自分を赦してあげよう」と思えたのです。娘を近くに感じていたくて、お骨は寝室に置いていたのですが、気持ちの整理がつき、4年目に実家の父や祖父の眠るお墓に入れました。ふだんは積極的に娘のことを話さない夫ですが、お墓参りでは自然と彼女の話になります。「生まれない命だってあるのに、僕たちは生まれてきた。だから一生懸命生きて、苦しい時は娘を思い出そう」と。娘を思い出すと悲しく苦しかったのに、いつからか苦しい時に娘を思い出して、勇気をもらう存在になっていました。あまりに短い命だったけれど、私たちの娘としてやって来てくれたことに、心からありがとうという気持ちは、ずっと大切にしていきたいです。

 

私は以前から子宮内膜症と子宮腺筋症(子宮内膜に類似した組織が子宮筋の中にでき、増殖するもの)があり、毎月の月経はのたうちまわるほどの激痛に悩んでいましたが、症状が悪化し、医師から子宮全摘を提案されました。死産の後も、緩やかに妊活をしていたのですが、子宮を取ることは、完全に自分の子どもを諦めるということです。夫と出産への思い、私の体のこと、今後の二人の人生について話し合い、全摘を決断。昨年末に、手術を受けました。

 

不妊に悩む人の心の止まり木となりたい


不妊カウンセラーとして、本格的に活動を始めて5年になります。終わりの見えない厳しい旅路で、小鳥が安心して休息できる「止まり木」のような場所でありたいと願って、鎌倉の太陽と潮風を感じる我が家に、「コウノトリこころの相談室」を開きました。コウノトリは赤ちゃんを連れてくると言われますが、愛鳥のセキセイインコにもちなんで、命名しました。

 

これまでの活動をいくつかのメディアに取りあげてもらったのですが、そんな私を誰より喜んでくれるのが義母です。新聞に載った私をあまりにも褒めるので、「まるで本当の母親みたいね」と言ったら、「だってあなたの親だもの」と一言。そんな義母のコトバに血のつながりについて改めて考えさせられました。家族といえど私は嫁。義母が私をそんな風に思ってくれていたなんて、気づいていなかっただけで、私は多くのものを持っているのかもしれません。

 

相談室には不妊の悩みを抱える人はもちろんですが、流産や死産で赤ちゃんを亡くした女性が多く訪れます。私が同じ経験をした仲間に救われたように、一人でも多くの方の心が軽くなってほしいと願い、活動しています。

 

もう一つ、力を入れているのが未来を担う大学生に向けての講演です。多様性が叫ばれる中、未だに残る「女性は結婚して子どもを産むのが幸せ」という価値観。これは素晴らしいことですが、私はこの価値観に苦しめられてきました。「どうして子どもがいないの? まさか不妊じゃないよね」と、習い事のクラスメートの男性に言われたこともあります。女友達数人と食事中、レストランで隣り合っただけの老夫婦から、「あなたたち結婚してるの? 赤ちゃん産んでね」と声をかけられたことも。今なら「不謹慎ですよ」と言えますが、あの時は傷ついて、口を閉ざすことしかできませんでした。

 

いつかこの学生たちの中の誰かが、または彼らの友人が、不妊の当事者になるかもしれない。仕事で関わるかもしれない。結婚しない人も、LGBTの人もいるはずです。そんな時、少しの想像力と思いやりがあれば、もっと生きやすい世の中になるはず。命、生死や性にまつわることは想像以上にデリケートです。これから社会に出る若い人たちが、私の授業で何かを摑み取ってくれたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

実は、このVERYの発売日9月7日は、死産した娘の7回目の誕生日であり、命日です。我が子を抱くことができず、生きていることさえ嫌になった私が、今は同じ悩みで苦しむ人に寄り添っているなんて、当時想像できたでしょうか。生きるってしんどいし、人生は険しい道のりだけれど、それ以上に素晴らしいものです。どんな経験も、自分の糧になっているのですね。こ
の気づきこそ、これまで頑張ってきた私への娘からのプレゼントなのかもしれません。

池田麻里奈(いけだまりな)さん
1975年東京生まれ、北海道育ち。2003年に結婚後、人工授精・体外受精、流産、死産を経験し、子宮腺筋症により子宮を全摘。
その傍らカウンセリングを学び、資格を取得。不妊・流産、死産などのカウンセリングルームを主宰。コウノトリこころの相談室 kounotori.me

撮影/吉澤健太 取材・文/三尋木志保

※VERY2018年10月号「連載 家族のコトバ」より。
※掲載の内容は本誌発売当時のものです。

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