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柚木麻子さん特別寄稿! ママに武器なんていらない

今年、VERYは創刊25周年を迎えます。8月号(7月7日発売)では、25周年を記念して、「私たちは5年前から進歩しただろうか?」という読み物企画をつくりました。この問いかけにこたえていただくように、小説家の柚木麻子さんに、特別寄稿していただきました。

 

 

 

今から5年前といえば、そろそろ子供がほしいと思い始めていた時期で、私なりに着々と準備を進めていた。無駄遣いはやめて貯金を心がけ、子持ちの友だちからたくさん話を聞き、仕事は前倒しで進め、シッターさんを探し、制度を調べ、近所の保育園を気にし始めたのもこの頃である。夫と話し合い、育てる環境を一緒に整えた。母はもちろん、頼りになりそうな同性の仲間たちとの関係は大切にした。育児書や産後のメンタルや夫婦関係による手引書は、日本語で出版されているものはだいたい全部読んだ。それから間もなく、妊娠する。
当時のことを考えると、子を持つワクワクよりも、戦地に向かうような恐怖と緊張がはるかに上回っていたように思う。武器を一つ一つ時間をかけ吟味して身につけ、完全武装するような気持ちだった。そして2020年6月を迎えた私が、あの時の自分に言えることが一つあるとしたら、残念、その武器はすべて使えなくなる局面がやってくるよ! ということだ。
そもそも、出産した瞬間から、あれれ?の連続だった。あんなに綿密にスケジューリングしたにも関わらず、産後の体調不良と寝不足のせいで、仕事は滞った。乳腺炎というものが歯がガタガタ鳴るほどの寒気と激痛のコンボだなんて知らなかった。保育園は40個落ちることになる。お金はぎょっとするようなスピードでなくなった。ベビーカーで外出したら、見知らぬ男性に後ろから蹴飛ばされて子供ではなく私が泣き出してしまった。仲間たちとはそもそも会う時間さえない。そしてこの春、とうとうコロナ禍に直面し、すべては破綻した。苦労してやっと入った保育園は休園、母やシッターさんを呼ぶことはかなわない。私は肺に疾患があるため、外にでないといけない夫とは距離をとって暮らすほかなく、ワンオペ育児をしながら自宅で仕事をすることになる。
あれだけ準備してきた時間とはなんだったんだろう。真夜中、ぼんやり思った。私だけじゃない。ケア労働を担う日本の母親は、なんでこんなに孤独で、なんでこんなに自己責任で歯を食いしばらないといけないのか、それでも破綻する原因ってなんなのか、ずっとずっと考えていた。
ふと鏡を見たら、汚れた部屋着に裸足で疲れ切っている自分が、『ダイ・ハード』という映画のブルース・ウィリス演じるジョン・マクレーンそっくりで驚いた。ベテラン刑事が別居中の妻が出席する企業のパーティーに顔を出したら、なんとそのビルが凶悪犯にハイジャックされてしまう、アクションムービーの金字塔である。マクレーンは銃は持っているものの、すぐ奪われ、いろんな不運が重なって裸足で半裸、丸腰でテロと戦う。時には消火器とかガムテープとか、その辺にあるものを駆使し、時にはテロリストたちから奪った武器で、まあほぼだいたい素手である。私はブルース・ウィリス、私はヒーロー。この難局を乗り切るために自己暗示をかけ、今までのポリシーと知識はすべて捨てることにした。というのは、『ダイ・ハード』で命を落とすのは、常識にとらわれた人々ばかりなのである。
長々と言い訳したが、この2ヶ月は子供にユーチューブを見せっぱなしにして、その間に仕事をしていた。泣いたらグミかアイスを口に突っ込んで黙らせた。つとめて遅寝遅起きさせて、私の執筆と睡眠時間も確保した。
5年前、ドキドキしながら大量の武器をぎゅっと握りしめていた私を思い浮かべると、いじらしいと思う。なんて声をかけてあげていいのか、迷う。ただ、一つ言えるのは、そもそもそんなに準備しなければ、子供を産むことさえできないこの国ってなんだか変じゃないか? 当時の私が社会のあり方をそこまで疑問に思わなかったのは、やっぱり恥ずかしいと思う。自分だけはななんとか適応してうまく乗り切ろうと、武器を買い占め、絶対に離すまいとしていた。そこに同じ母親たちへのいたわりの視点や問題意識はあっただろうか。
『ダイ・ハード』が素晴らしいのは、マクレーン刑事は妻を守りたいとか妻とやり直すために戦っているのではないところだ(マクレーン刑事の妻・ホリー・ジェネロは私が知るフィクションのキャラクターの中で、最も強くて勇気がある民間人である)。マクレーンは妻に謝りたいと思って、そのために命を張っている。かつて妻のキャリアアップを邪魔しようとしたこと、辛い時に応援しなかったことを反省し、彼女の目を見てお詫びを言うためだけに、ガラスの破片で血まみれになりながら、たった一人で戦っているのである。
母親が武装することなく、そこまで緊張することなく、育児できるのが正しいあり方ではないか。私は今後も丸腰のまま、この主張を口にしていきたい。遅ればせながら、同世代や次世代の子育て環境が少しでもよくなるために、できることから始めたい。反省することができるのが、やっぱり真のヒーローだと私は思うのだ。

 

ゆずき・あさこ/小説家。1981年東京生まれ。2008年にオール読物新人賞を受けた短編を含む『終点のあの子』でデビュー。15年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。主な著書に『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など。2017年第一子を出産。

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