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進学校から国立大進学、ソニー勤務 「耳が聞こえない」起業家が「聞こえたらいいのに」と思ったことはない理由

難病を患って生まれた長女の出産をきっかけに聴覚障害者とその家族を支援する会社を起業した牧野友香子さん。自身も重度の聴覚障害がある状態で生まれましたが、幼稚園から高校まで一般校に通い、神戸大学に進学。卒業後は、一般採用で第一志望だったソニー株式会社に入社するなど、人一倍の努力と持ち前の明るさで人生を切り開いてきました。牧野さんのポジティブシンキングの原点となった子ども時代の話や、ご両親からの教育についてお聞きしました。

「難聴だからダメ」とは言われなかった

──重度の聴覚障害がありながらも、チャレンジ精神を忘れずに夢を叶えてきた牧野さん。明るくいつも前向きな姿勢は、子どものころに培われたものなのでしょうか?

生まれたときから難聴だった私には、「聞こえないこと」が当たり前でした。実は「耳が聞こえたらいいのに」と思ったことは一度もないんです。もちろん、周囲の人と同じようにはできないこともたくさんありましたが、両親は「聞こえないことを言い訳にしないで、何でもやってみなさい」というスタンスで私を育ててくれました。

音楽の授業で取り組むリコーダーやピアノも「どうせ聞こえないからやらない」というのは許されません。母には「聞こえなくたって、同じ音が出せるんだから」と言われ、でも、反対に、「聞こえないからやってはダメ」と言われた記憶もありません。

小3のころ。耳が聞こえなくても多くのことにチャレンジしました

 

小学生のころ、近所の習い事には他の子たちと同じように一人で自転車に乗って行っていました。周囲の大人のなかには、「車の音も聞こえないだろうし、さすがに危ないのでは?」と心配してくれる方もいたのですが、母は「気をつけて運転するのよ」とだけ私に伝え、禁止にはしなかったのです。

今、思い返してみると、たしかに危なっかしい場面も多々あったのですが、両親がそうやって育ててくれたおかげで、友達と同じようにできないことがあったとしても、「聞こえないから仕方ない」とあきらめるのではなく、「どうすればできるようになるかな?」と考えることが当たり前になった気がします。

「どうしたらできるようになるか」考えるきっかけをくれた母と

 

──2歳で難聴だと判明してからは、お母さまが「この子が身に付ける言葉は、すべて自分にかかっている」と思いながら、牧野さんに言葉を教えたそうですね。

母はきっと、娘の将来を案じていたからこそ「特別扱いはしない」という覚悟をもって育ててくれていたんだと思います。母自身はどちらかと言うと、大らかでポジティブなタイプですが、私の耳がまったく聞こえていないことがわかった当日は、記憶がすっぽり抜け落ちているそう。医師から告知を受けたその足で、友人宅に寄って話をしたらしいのですが、「何を話したかまったく覚えていない」と聞いたことがあります。当時のショックは相当なものだったはずです。

──その後、家庭学習に加えて療育機関でも学んだことで、相手の口の動きを読み取って言葉を理解する「読唇」と、自分自身の発音で言葉を発する「発話」を習得した牧野さん。幼稚園から中学まで地元の一般校に通い、高校は、大阪の進学校である天王寺高校に合格しました。

正直、中学までは勉強が得意だと思っていました。でも、高校に上がると、周囲は優秀な子ばかり。授業のスピードも速くなり、内容も難解になったことで、読唇で授業内容を理解することが難しくなってしまい、授業についていけなくなってしまいました。追試もパスできず、再追試、再々追試、なんてこともありました。

幼稚園から一緒の友だちも多かった中学までとは違って、高校では一から人間関係を築く必要もあり、その点でも苦労しました。いつも私をサポートしてくれる親友に甘えすぎてしまい、相手の負担に気づかずに関係をこじらせてしまったり……。勉強も人間関係も初めての挫折を味わったのが高校時代ですが、今思えば、そこから学んだことも多かった日々です。

困難もそこから得た学びも多い高校生活でした

 

「安心できる居場所」がたくさんあるから救われた

──高校卒業後は、神戸大学の発達科学部に進学されます。

心理学には高校に入学する頃から興味がありました。私は相手の口の動きを読んで会話をしているので、人の顔をよく観察します。そのせいもあって、表情から感情や考えを読み取ることが得意なのですが、日頃は無意識に行っているにすぎません。学問の側面からも人の心を学んでみたい、と思ったことがきっかけです。

入学当初は、その先の明確な夢があったわけではないのですが、大学で学ぶうちに人の心理に興味がどんどん湧いてきて……。就職活動では、その会社でやってみたいと思う職種を探しながら会社選びをしました。両親は、障害があっても働きやすい職場環境がいいだろうと、薬剤師などの資格職か公務員になってほしかったようなのですが、私には向いているとは思えなかったんです。ソニーでは希望通り人事部に配属されましたが、海外マーケや製品企画などそれぞれの会社でやってみたい仕事を探して就職活動をしました。

新卒で第一希望だったソニー株式会社に入社したころ

 

──お話を伺っていると、ご自身の性格や傾向をよく分析されているように感じます。日頃から意識されていることがあってのことなのですか?

たしかに、意識的にそうしている部分もあるかもしれません。「耳が聞こえないハンデがあるなか、自分を活かせる立ち位置や居場所をいかに確保するか」と、子どものころからいつも考えて行動していたので。

たとえば、私は相手の口が見えないと話している内容がわかりません。いつも自分がどこに座るべきかを考えていました。よく話す人の前にいると口が見やすいので、大勢の会食や会議ではなるべくおしゃべり好きの人の正面を確保しています。初対面の人に、耳のことを打ち明けるべきタイミングや話し方を探ったりするのもいつものことです。日常的にそういうことに気を遣っているので、自分はどういうタイプで、どうすれば人とうまくやっていけるか、と分析する癖が付いたのかもしれません。

──気遣い上手で、周りを笑顔にさせる雰囲気をお持ちですよね。ただ、ときにはうまくいかないこともあったかと思うのですが、気持ちの切り替えはどうやって行ってきたのでしょう?

落ち込んだときには、人に話を聞いてもらうことが多いです。ありがたいことに、昔から学校や療育、塾、習い事など、私にはたくさんの居場所がありました。学校の人間関係に悩んだときは塾の友達に話を聞いてもらい、塾でうまくいかないことがあれば地元の友達に愚痴ったりしてきました。悩みに対する答えが返ってこなくても、聞いてもらうだけでストレス発散できるタイプなので、日々のモヤモヤはそうして解決してきたように思います。安心して本音を言える居場所がたくさんあったことが、私には大きなプラス材料になりました。だから今は、二人の娘たちにも、学校と家だけでなく、たくさんの居場所を作ってあげたいなと思っているんです。

PROFILE

牧野 友香子(まきの ゆかこ)さん

1988年大阪府生まれ。生まれつき重度の聴覚障害がありながらも、幼少期から読唇術を身に付け、幼稚園から高校まで一般校に通う。神戸大学に進学し、卒業後は一般採用でソニー株式会社に入社。難病を患って生まれた第一子の出産をきっかけに、難聴児やその家族を支援する「株式会社デフサポ」を立ち上げると、YouTube チャンネル「デフサポちゃんねる」も話題に。2022年より夫と長女、次女と共に渡米し、現在はアメリカ在住。

 

『耳が聞こえなくたって   聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(KADOKAWA・1650円)

生まれながらに重度の聴覚障害があり、持ち前のバイタリティと天性の明るさを武器に人生を切り開いてきた半生を綴ったエッセイ。思春期の葛藤や失敗談、運命の夫との結婚や難病を患って生まれた長女の育児、起業からアメリカ移住まで……。母になっても社長になっても、つねに全力で夢を追いかける“七転び八起き”な日々!

取材・文/小嶋美樹 撮影/光文社写真室

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